野田秀樹について

開かれることの演劇


古い付き合いの劇団の主宰に呼ばれて、今日は彼の事務所に行った。軽く打ち合わせなどをして、撮影のロケハンがてら散歩したあと、ふと彼の部屋の本棚に野田秀樹の『半神』の戯曲が置いてあるのをみつけ、手に取ってしばらく読みふけった。懐かしかった。私が生まれてはじめてプロの芝居を目撃したのは、他でもないこの『半神』という作品だった。当時その鑑賞は残念ながらVHSによるものだった。そして未だこの作品にナマでお目にかかる機会を得ていない。しかし、言葉が、空間が、身体が、これほどまにで自由なのだと直感できる舞台作品には、もう一生出会えないかも知れない、そう確信してもいいと言えるような代物だった。


演劇は、つねに、目の前にあるこの身体、この声、この空間を素材にしている。絵の具や文字と違って、自分の思ったように気軽に消したり加工することができない。とても不自由なメディアである。それは、きっと、私たち自身だって同じだ。「この私」というあまりにも具体的な存在、「いま、ここ」という取り替えることのできない時間と場所。私たちはみんな、本当はそのことから逃れることができない。でもだからこそ、「ここではないもの」を希望してやまないのだ。だとしたら、演劇とは、「ここ」にしかいられないあらゆるモノの存在を、言語や、光や、音楽や、建築によって、「そこ」という可能性の世界にまで高めることの出来る何かかも知れない。


野田秀樹氏は、その意味を十分すぎるほどよく理解している人だ。彼のつくる舞台では、一枚の布は、もはやただの一枚の布ではなくなる。コカコーラの瓶は、単なるコカコーラの瓶以上の複数の何かに成る。「イキ」という発音は、「行き」にも「息」にも「遺棄」にも聞こえる。観る度に思うことだが、つまり、野田秀樹の舞台は、開かれることの演劇だ。モノの具体的な側面、コンテクストをいったんチャラにして、モノが別のモノになり、モノとモノとがより戯れる開かれた<場>を設計する達人である。私たちは、少なくとももう日本では、この先彼以上に、私たちを、あんなにも未知な世界へいざなってくれる戯曲家・演出家と、遭遇することはもうないかも知れない。