「少女」の低年齢化と「女子」の高年齢化

小学生が化粧

化粧の低年齢化がはじまったのは、いつぐらいからなんだろうか。調べてみると、バンダイが小学生低学年対象のメーク用品を売り出したのは92年で、それに続いて大手化粧品メーカーもローティーン向けの化粧品を売り出し、コンビニのコスメも小中学生にウケているとか。

ただ、実際化粧してる小学生を見たことがあるかっていうと、…これはほとんどない。登下校中の小学生の女の子とすれ違っても、みんな見事にすっぴんだ。地元の鳥取県ではもちろん皆無。だからといって東京で見たかっていうと、記憶にはまったくない。「いや、学校行くのに化粧なんてするわけないだろ?」。…確かに。じゃあ彼女たちは、まるでOLが会社帰りにトイレでメイク直すみたいに、帰り道の公園のトイレとかで友達とメイクして、買い物行ったりゲーセン行ったり塾に行ったりするんだろうか。…もしかしたらそうかもしれない。

実態はとりあえず置いとくとしても、どうやらコスメ業界が、市場として小学生を「発見した」ということなんだろう。あの『小学六年生』でさえ、化粧特集をするくらいなのだ。「あいつ絶対化粧してるよな」とかで小学生男子は盛り上がったりするのだ。実際化粧をやっているかどうかということ自体よりも、小学生お決まりのそういうコミュニケーション環境の中に「化粧すること」にまつわる何かが出現してくるということこそが、重要であり象徴的でもある。


言うまでもなく、化粧は大人社会への参入ツールとして機能するものだったはずだ。社会性の獲得における低年齢化ということで言えば、もちろん化粧だけに言える事ではない。たとえば「学校裏サイト」的なものや『前略プロフ』や『リアル』といったメディアの利用は、広い意味での社会性を要求することだろう。ただ、コスメやファッション、つまり「美」に関係する営みに対して女性が持つ、自己プロデュース力や差異化欲みたいなものは、ある種独特なものがある。そういう自己再帰性を獲得することが「大人への第一歩」だとすると、たとえば「少女」と呼べるような年代は、ひと昔前より圧倒的に短くなってしまっているのではないか? 根拠はまったくないが、昔はきっと、十六、七の娘は、立派な「少女」だったんじゃないか? 「古代の律令制下では17歳から20歳の女性を「少女」と称した時期があった。」ってWikipediaにも書いてある。

そういえば女子中高生を見て「少女」を連想することなんてないなあ…。こないだ路線バスで、4才くらいの女の子が一人で後ろの席に乗っていて、ピンクのちっさいリュックを背負いながら、車椅子で乗ってくるじいさんを珍しかったのか超ガン見してて、そうかと思うとおもむろにリュックから財布を出して中身を確認したりして、その一連の挙動のとりとめのなさに「はあ!なんて少女!」と胸を打たれたけど、もうたぶんそれぐらいの歳の子が「少女」のギリギリ限度になってくるんじゃあないかとすら思える。

アラサーでも女子

ところが、「少女」がどんどん低年齢化してくる一方で、「女子」はどんどん高年齢化してきている。「少女」と「女子」、意味的にはほとんど変わらんじゃないのか? 確かに。ただ、どうも、この「少女」という用語は世間的には特別な用例で使用されているケースが多い。

私の知り合いの女性は、30才近くて、何のネタ的な素振りもなく「女子の中ではそういうことになってるからねぇ」などと、会話の中でいとも自然に「女子」を使ってくる。「自分(を含めたこの年代の女性みんな)は女子なのである」というメタメッセージをぐいぐいトークに織り込んでくるのだ。必死にアピールしてくるのではなく、いとも自然に、というのが、かえって強い意図を感じさせるわけだ。これは少し偏見かもしれないが、AERAやananとかの特集を読んでいると、「非モテ女」がより好んでこの「女子」というキーワードを自称したがる傾向にあるのんじゃあないかと想像している。つまり、対男性に満たされることが不可能だった自己承認欲求を、対女性(場合によっては自分単独)側に移行しようとすること、言い換えれば、「女性=恋愛や結婚に直結したフェミニンな存在のイメージ」ではなく、「女子=男性をセットとしないイノセントな存在のイメージ」へと自分の主体モデルをオペレートしていく行為のあらわれだと考えられなくもない。

そう考えると、彼女たちがしきりに自分(たち)のことを「女子」と形容したがる裏側には、かなり切実な欲望モデルが潜んでいるということになる。


上でもまったく同じようなことを書いたばっかりなんだけれど、言うまでもなく、「女子」は主に未成年の女を指す言葉だったはずだ。未成年性の高年齢化、という意味では、ちょっと種類というか構造上の違いはあるかもしれないけど、「草食系男子」もその一例とし挙げられるかもしれない。が、草食系男子がいくぶん受動的にタグ付けされた属性であるのに対して(あんまり自分から「俺草食系なんで、よろしく」とは言わない。というかどちらかというとそんなことを言わない男子を草食系と言う。)、他方、「女子」はかなり能動的に自称してくるところを見ると、そこに何かしらのっぴきならない事情を感じ取らないではいられない。

背景には、「国が経済的に成長して女性でもそこそこ安定した地位や収入が得られるようになったから?」とか「欲望が多様化して、男にとって、女がステータスになるような時代はもう終わったから?」とか、いろいろ考えられるけれど、いずれにしても、今後もっともっと女性が自分のことを「女子」だと主張する年代が上がってくることはほぼ間違いないだろう。木村カエラや、篠原ともえや、小倉優子や…といったクラスターは、何となくいつまでも「女子」を貫きそうなイメージがある。あるいは、たとえば、アラサーでもアラフォーでも例外なく、「女子アナ」は「女子アナ」であり、いつまでも決して「女性アナ」とは呼ばれない。女子はいつまでも女子なのである。

タイムラインの消滅

ここでひとつ面白いのは、これもかなり何となくの話ではあるが、上に書いた「すんげー早い時期から化粧してる女の人」と「すんげー遅くまで女子でいたい女の人」というのは、絶対「同じ人(属性)」ではないな、と思うことである。果たして、小学生から化粧してる人は、35になってまで「女子」とか言ってるのか?、とか、逆に、35で「女子」と言ってる人は、小学生から化粧なんてしてねーんじゃね?とか、 …まあ、そんな気もするし、そうとも限らない気もする。アンケートでもとりたいところだ。とはいえ、少なくとも、「女の児(こ)」→「少女」→「女子」→「女性」みたいな、時間軸に沿って徐々に成長/性徴していくというモデルは成立していない。少女がかなり短い女子を経ていきなり女性になったりすることがあったり、そうかと思うとずっと女子のままの人がいたりと、随分しっちゃかめっちゃかである。

このあたり、属性ごとにマトリックスでわけてみたりすると面白い気がするので、またそういう気分になったら考えてみたいところだ…。

真鍋大度について



最近いろんなところ(主にウェブサイト)で真鍋大度氏の活躍を目にする。“メディア・アート界の奇才”とまで呼ばれている。ただ、正直こんなに有名な人だった(になった?)とは知らなかった。
真鍋大度をはじめて知ったのは、2005年、Sal Vanillaという舞踏グループが主宰するイベント『VANILLA SPORTS vol.01』(六本木Super Deluxe)に彼が出演したときのことだった。私はその会場に居て、当時Sal Vanillaと少しだけ関わりがあったこともあり、そのイベントの映像撮影をするためにビデオカメラを回していた。
イベントの中盤で、真鍋大度のパフォーマンスがはじまる。彼は雑然と並べられた機材とそれらをつなぐ大量の配線群に囲まれて、地べたに座っていた。前屈みになりながら、センサーに指や手をかざす。無機的だが剥き出しで息づかいのある電子音。数十分にわたる演奏は、なかなか心地よく且つ興味深いものだった。


音は物質と物質の、より詳細に言えば、粒子と粒子の「こすれ」によって生じるものであり、また、粒子と粒子の「ゆらぎ」によって伝達されるものでもある。つまり音とは、存在そのものの証明、存在の到来そのものの現れと言っていい。「訪れ」という言葉の語源は、「音連れ」からきているという説がある。音を聞くとき、音が聞こえるとき、われわれはそこに事物の現れと消息を感知している。
真鍋大度のパフォーマンスは、視覚と聴覚、アナログとデジタルを、「音=光=物質」という回路で結んでみせるような、マジカルな性格を持っている。それは一見即物的で単純そうに見えるが、「音と動きと存在」に関わる原初的な認知感覚をくすぐる極めて優れた“音学”でもある。




最後の動画は、私が撮影&編集を一部担当した2005年『VANILLA SPORTS vol.01』のプロモーション映像。真鍋大度のパフォーマンス風景も収録されている。

「Social Street View」をiPhone/Androidで


みんなでつくるStreet View

iPhone OS 3.0」および「Android OS」向けのアプリケーションで、『Mobile Nearby』というアプリがあります。端末から、Flickrのモバイル向けサイトm.flickr.comにアクセスし、「Photos taken nearby」をタップすると、現在の位置情報をGPS+インターネットを使って取得して、現在いる場所周辺の写真と地図が表示されるという機能(上の写真)。写真の位置情報は、「Exif(Exchangeable Image File Format)」に埋め込まれたものを利用しています。「この近くにこんなとこあるの?」「この写真この近くのどこ? あそこじゃない? あ違った」などといったかたちで楽しめる。


誰でも思いつきそうなことですが、「iPhoneGPSとコンパスと傾きセンサーを使えば、これってみんなで撮った写真でGoogle Street Viewができるんじゃないか?」。GPSは10m程度の誤差があり、撮った写真が現実の風景の連続と完璧に一致するように配置するのは難しいため、微妙にばらつきが生じる可能性がありますが、画像自体の近似度をとって配置し直せばある程度「それっぽい」Street Viewができるし、最終的には「ユーザーの手」によって「ここじゃなくてこっちのとなりだろ」みたいに再配置するっていう方法をとれば、何となくゲーム感覚で面白さを担保しつつ、Street Viewの精度を上げられるんじゃないかと思います。さらに、「Exif」の日付情報をもとにして、「年代に絞って見る」とか「年代を追って見る」といったように今のGoogle Street Viewにはない「時間性」を用いた機能を作れるかもしれません。

Social Street Viewの応用可能性

Social Street Viewの表示対象になる写真は、特に「まちの風景の写真」だけじゃなくてもよいので、たとえば「食べ物の写真だけ表示する」という感じで店舗情報などとの連携ができそう。
また、撮影された枚数が多ければ多いほどそのスポットの注目度が高いということになるので、写真の枚数に応じてランキングを生成することも簡単にできます。
それ以外にも、旅行中に撮った写真をまとめてアップして、旅行の風景を地図でたどりながらダイジェストで見れる、とか、逆に旅行中に誰かがアップした旅行風景をたどりながら行き先を決める、みたいに、「トラベルクリップ」的なものを共有して旅行体験そのものを補強するサービスとしても活用できそう。

「場所の記憶」の変容

2008年、東京都庭園美術館で『建築の記憶』という展覧会が開催されました。この展示に関して、nobodyのブログで梅本洋一が次のような文章を書いていました。

建築が人々の記憶に留まるためには、写真が必要である。挿絵や図版以上に写真と建築の関係は色濃い。(引用元

建築だけではなく、もっと大きなレンジでの「都市」「地域」「風景」と写真との関わりもまた密接です。そこから動かすことのできない「都市」「地域」「風景」は、実際に訪れない限り見ることができない。逆に言うと、私たちの場所体験=記憶のほとんどが写真によるものだということです。
インターネットの普及以降、写真共有サイトなどの登場によって、いわゆるカメラマンが撮ったパブリックでアイコン的な写真だけでなく、これまで個人の手元にあった匿名性の高い写真がわらわらとネット上にまき散らされることで「場所の記憶」の裾野が広がったというか、場所に対する人々の記憶が非常に多様化したとともに詳細化された、ということがいえると思います。
ただ、この段階ではまだその記憶性は雰囲気レベルで個々人の頭の中に保管されているだけです。仮にSocial Street View的なものが登場すれば、その「何となくみんなが抱いている場所に対する記憶のソース」をまとまったかたちで可視化できる。しかもそれはかなり細かなスパンで増殖し、かなり細かなスパンで編纂することも可能。これによって「場所の記憶」がつくられる仕組みそのものが大きくシフトチェンジする可能性さえあるかもしれません。

「コミュニケーション写真論」的なもの


ケータイで撮った写真はほとんど見返されない問題

「ケータイで撮った写真は、保存されたままで実はあんまり見返されない」。日常生活の中でしばしば体験されることだ。実際に私も、ケータイで撮った写真のほとんどを(記念写真/メモ写真を問わず)すぐに見返さない、という状況がしばしばあり、随分後になってカメラフォルダをのぞいた時にまとめて出てくる「忘却された写真」の数々にびっくりすることがある。
たとえば、上の写真。これは仕事で香川に出張に行った時に撮影した写真で、ふとマイピクチャを掘り返していて発見したものである。レンタカーで高松市内にある屋島展望台に行った際、『夢虫館』という名前からしてちょっと面白そうな昆虫博物館(らしきもの)を見つけたので入ろうとしたら「3/31で閉館しました」との貼り紙があって残念&憤慨したときに撮った一枚。閉館していて悔しかっただけならわざわざシャッターを切る必要もないものだが、ポイントはこのときその場に居たのが私一人ではなく、複数人であり、その全員によってこの残念&憤慨が「共有」されていたことにある。
「なんだよ!営業してないのかよ!この野郎!……貼り紙でも写真に撮っとくか!」という流れで、一同の笑いを誘う。その瞬間、貼り紙を撮影するという行為にこめられていた期待とは、いつかくる未来にその写真をじっくり見返したいということではなく、カメラを構えたまさにその現在において他人とコミュニケートするというものだった。もちろん、貼り紙を撮るという行為にはいくつかの動機があり、「ずっと後になってその場に居た誰かとこの写真を見返したときにかなり笑えるかもしれない」という期待があった可能性も十分に考えられるが、あくまでそれは二次的な動機だと言っていい。
結局、私はこの写真を撮ったことすら忘れている。しかし、それで特に問題はない。この写真はほとんど撮られたその場で完結してしまっていたからだ。このような撮影行為を通してのコミュニケーションが、「ケータイ」というそれ自体多面的なコミュニケーションアイテムの中の一機能によって実現されているという点もまた非常に興味深い。

写真に対する2つの期待値

便宜的に言うと、写真(を撮ること)には2つのアプローチの仕方があると言える。一つ目は、撮影して出来上がった写真そのものに期待値が置かれるような方法。この場合、「撮ること」は写真を完成させるための手段でしかない。そして二つ目は、撮影行為そのものに期待値が置かれるような方法。この場合、出来上がった写真やそれを「見ること」は、目的としての「撮ること」の派生系でしかない。言うまでもなく、この2つのアプローチは、完全に分離出来るものではない。寧ろ、あらゆる撮影行為にはこの2種類の動機が複雑に絡み合っていて(あるいは並行に存在していて)、どちらか一方の期待値のみによって写真が撮られることはほとんど無いと言っていいかもしれない。ここでは仮に、前者を「アウトプットのための写真」、後者を「コミュニケーションのための写真」と呼ぶことにする。
この2つのアプローチの配分が、「撮ること」のシーンによって大きく異なることに注目したい。たとえば、履歴書に貼る写真や、遺影、航空写真、鉄道写真といったコレクション/アーカイヴ要素の強い写真においては、出来上がった写真それ自体(の出来映え)によって、事後的に撮影の成功が左右される。これらの写真が撮影されるシーンでは、「アウトプット性」が強く「コミュニケーション性」は極めて低い。これに対して、結婚式場で撮影される写真や、旅行写真といったライフログ要素の強い写真においては、撮影されるその場のノリや、カメラを向けてシャッターを切る行為そのものが共有されるということが重要な意味を持っている。これらのシーンでは、逆に「アウトプット性」は低く「コミュニケーション性」が非常に高いことがわかる。
写真における「アウトプット性」と「コミュニケーション性」は、互いに背反することはなく、ときにまったくパラレルな変数として立ち上がってくることもある。それをもっともよく示す事例が、“プリクラ”(プリント倶楽部)の写真である。プリクラでは、「プチ記念」や「プチ友情」の交換・確認行為というコミュニケーションのレイヤーと、出力された写真シールの完成度やおかしみを楽しむ/配信するというアウトプットのレイヤーとが矛盾無くそれぞれ強固に同居している。ここからわかるのは、写真を「撮ること」と「見ること」は、つながっているように見えて(つながっている場合もあれば)それぞれ個別の事象として体験・処理される場合もあるということだ。
また、特にデジカメやケータイ等による撮影では、撮ってすぐに再生して確認して更にまた撮り直して互いに見せ合う、といった具合に、アウトプット層とコミュニケーション層とを短時間にハイペースで行き来することも特徴的である。

コミュニケーション写真論宣言

少し話が脱線したが、「コミュニケーションのための写真」にフォーカスし直すと、極端に言えば、「コミュニケーションのための写真」は、後で見返される必要はまったくない(しかし、見返すことができる、という保証は必要不可欠である)。たとえば学園祭や居酒屋やカラオケボックスで、盛り上がってカメラを構えてフラッシュをたいてシャッターを切るとき、そこでは「ハッピーなこの瞬間を残そうとしている」というある種のメタメッセージが共有されることこそが重要なのである。コミュニケーションとしての撮影は、カメラを持ってシャッターを切るという単純な行為によって「この時間、この場所」をメタ的に捉え直すかたちで他人と共有し、おかしさやうれしさを増幅するという特徴を持っている。*1
ただ、こうした写真の側面が、写真の論壇や写真展の題材として採用されることはほとんどない。社会学的見地からデジカメやケータイでの撮影行為が語られるケースはいくつかあるが、写真家や写真評論家が、こうした「ソーシャルな」写真の性格について言及することはほとんどない。写真論において主流なのは、

  • 写真そのものを、撮られた場所や時代背景という環境も含めて絵画論的に読み解くという表象中心的なもの
  • 写真家の思考・思想に寄り添う作家中心的なもの
  • 「見るもの/見られるもの」という、撮影者と対象との二元的な関係性について掘り下げて行くもの
  • メディアとしての写真について論じたもの

といったようなラインナップである。
凡庸な言い方だが、ケータイやデジカメといったデバイスの登場と普及によって、写真の質が大きく変動したことは事実である。確かに、「デジカメ」や「データとしての写真」に関する写真表現や写真論は多いが、いずれも、その空虚性、消去可能性、反復性、編集性などといった「アウトプット性」重視のキーワードによって探求されていくものがほとんどだ。既に試みとしてはあるのかもしれないが、今後は、ソーシャルな写真のあり方や、撮ることと見ることの圧倒的な乖離というような、より大きな関係の枠組みで写真をとりまく環境の変遷について言及するような表現・批評ががもっと出てきてもいいかもしれない。

*1:デジカメやケータイは、その場で画面で写真を見ることが出来るから、そこでアウトプット性が担保されてしまうことによって、後で見返す必要性がなくなるのではないか?という見方が生まれるかもしれないが、両者は全く別物だと考えた方がいい。撮影時にモニタで確認したからといって後で見返す必要性・必然性がなくなるわけではないし(アウトプット性を高めるためにその場で随時確認しながら撮るというスタイルもある)、更に言うと、コミュニケーションとして撮影行為が機能するために、画面で確認することは必須ではないし、撮影する装置はデジカメやケータイである必要はなく、フィルムカメラでもまったく変わらない。

黒牛@代々木三丁目



無性に焼き肉とビールを口に入れたくなって、会社の近くの焼き肉屋さん「黒牛」(コクギュウ)へ。おっされーな店内。ちょっと高めだけど値段は知れている感じで、とにかく肉は良い肉だった。レバ刺しや冷麺といったサイドメニューも大変おいしかった。また行こう。写真は「レバーのぶつ刺」。
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