穂村弘『LineMarkers』

カナリヤを胸ポケットに挿し込んで便器レバーに映される夜
鈴なりの黒人消防士がわめく梯子車に肖[に]た婚約指輪


穂村弘の詩は、一貫してこのように意味や文脈が「脱臼された」テキストによってつづられています。そもそも詩(短歌や俳句なども含む広い意味での)は、文字としての言語表現の中でも比較的、意味される「内容」よりも「形式」に依存し、重きがおかれているものが中心的ですが、とはいえそれをある程度前提にした上でも、彼の詩は一層そのことが強調されていて、ほとんど単語レベルで意味がちぐはぐというか、パッチワークされた言語というような印象を与えます。


たとえば上記のような表現を、人文系/思想系をちょっとでもかじった人にとってはたちまち「あーはいはい」ということになってしまうと思いますが、時代背景から考えてもまさにどんぴしゃで、穂村弘は62年生まれ。いわゆる“新人類”世代のど真ん中にあたりますが、つまり、60年代ぐらいに現代人文思想がなんだかすごい求心力を持っていて、「言説」による革命みたいなものがすごく強調されていたんだけどそういう時代も過ぎ去って、でもどこかでそれに抑圧され(続け)ている世代だからこそ、「言説」による別の表現手段が模索されている、というような気がします。穂村さん本人も、そうした自分自身の世代論的な背景については、インタビューなどの発言を見る限りとても自覚されているように見受けられます。http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/kawakamihomura/04.html


こう言ってしまうと身も蓋もないですが、穂村弘の詩が特徴的なのは、あたかも「現代詩ジェネレーター」みたいなもので作られたんじゃないかと思うくらい、統語的にも単語の色合い的にもでたらめだ、という点です。もちろんある程度使われている単語の幅、方向性は限定されてはいますが、ウェブ上にある単語を収集してちょっとフィルタリングをかけて並び替えても同じようなものが作れるんじゃないか、なんてことを思ってしまうくらいです。


逆に、これは穂村さん自身も上記のインタビューの中で述べられていますが、穂村さんの下の世代の歌人の方(斉藤斎藤、中澤系、兵庫ユカなど)の作品になると、まったくこれとは毛色の違う表現方法になっているな、ということが顕著に感じられます。
確かに共通項として、「意味の非強度性」みたいなキーワードはぼんやりと浮かぶのですが、たとえば穂村さんの作品が、比較的実験色が強く、単語レベルでコンテクストを組み替えて統語論=形式の再組織化を試みる(ように理解出来る)ものであるのに対して、それ以降の世代の作家の作品では、「え、そういう些細な日常系もそんな風に詩にしちゃうんだ」的なある種の価値の再編成が起きているように思われます。
言ってしまえば「Jポエム」みたいな表現シーンがそこには立ち上がってきていて、要するに、アートでも音楽でも小説でも演劇でも起こっている同じことが現代詩の中でも起きている、ということが言えます。


穂村さんのインタビューでは、こうした世代間の差異がとりわけ強調されているようにも見えましたが、とはいえ、いずれにしても(こんなことはずっと言われてきていて今更特筆するべきことでもないですが)、村上隆の「スーパーフラット」という言葉に象徴されるような価値の転換、或いは等価作用が、特に現代の日本(カルチャー)において現れているのは疑いようの無い事実で、しかし問題はそうした抽象的なスタンスや宣言のレベルにとどまることなく、かつナイーヴな自己肯定にも陥ることなく、いかに質的判断を打ち破るようなインパクトを持った作品を生み出していけるか、ということに重要なポイントがあるような気がします。
ただ、現代詩という分野に特に明るいわけではない自分なので、そのポイントに応えられる作家がいるかどうかなどについては、全然わからず、もう少し調べてみる必要がありそうですが…

恥じらいの境界線


会社のトイレでおしっこしてて、どーしてもオナラがしたくなって、でも今やったら確実にでかい音出るぞっていう尻感のとき、となりに掃除のおばちゃんが居て、二度と会うかわからないけど出したら出したでちょっと気マヅイみたいなんで、すごくこの場合どうしようか迷いに迷って、結局出した。とても大きな音が出た。

フランソワ・トリュフォー『恋のエチュード』


トリュフォー後期のラブロマンス。映画はやっぱり演出だ。


名ゼリフも多い。

  • クロードとミュリエルが夜の階段で…
    • 「なぜ触れるの?」
    • 「君がこの世に生きているから」
  • 他の男性に移り気なアンがクロードに対して…
    • 「あなたから離れている私は別人なのよ」
  • 「私たちはしばらく離れた方がいいわ」とクロードに告げるアンが、直後にすがるように…
    • 「できる限り愛して」
  • 「朝食は食べてきたのか」とアンに問われたクロードが…
    • 「君が僕の朝食だ」
  • ミュリエルがクロードに送った最後の手紙に…
    • 「この紙は私の肌 インクは私の血です」

新海誠『秒速5センチメートル』


動画メモ


久しぶりに見ようと思ったら(特に高画質版は)ばかすか消されまくっていた。現状で高画質うpされているのを見つけたので、ニコニコのうp主のマイリストをリンク。

http://www.nicovideo.jp/mylist/7983051

人物投影による神話作用/反作用


『秒速…』のアニメは、男子視点から描かれた、男子が女子を「投影する」物語だ。主人公の遠野貴樹は、第1〜3話のいずれにおいても、つねに「ここではないどこか」に居る女子、篠原明里に対して思いを馳せる(ように描かれている)。そして、その存在を、彼は周囲にある様々な事物上に見出すことで、明里の存在を「どこかではなくここ」へと志向可能な状態にまで高めている。たとえば、明里から届いた手紙の中に(中学生時代)、送信先不明の携帯メールの中に(高校生時代)、桜の花びらや豪徳寺の土地性といった環境情報の中に(社会人時代)。そこでは事物は単なる事物以上にある種のメディアで、まるでアニミズムに似た志向作用がそこここに働いていることがわかる。“汎神”ならぬ、“汎昔好きだった女子”として、いろいろな場所、場面で明里の存在が投影される。


また、明里があらゆる場所、場面に投影可能なひとつのシンボル=神的なものとして描かれるという意味作用が生まれる一方で、それによって、視聴者(である男子)が、明里という人格に自分が昔好きだった女子の存在を次々と投影できてしまうという、興味深い反作用が生まれる。小学生のときちょっと文通してた女の子とか、高校のころメル友だった女の子とか、ほとんど忘れかけていたくらいの、それまでは特に人生においてほとんど何の意味も持っていなかった(意味付けされていなかった)人物たちが、あたかも特別な存在として、つまり(遠野貴樹にとっての篠原明里のように)、それぞれ今はどこかで自分のまったく知らない別の人生を送っている女の子たちは、かつてあの場所、あの場面で「別の選択」をしていたら、ひょっとすると今とは別の現実があったんじゃないか、と思ってしまうような特別な人格としてわらわらと立ち上がってくるのだ。まるで、明里という消失点に向かう遠近法の線上に、がーっとそうしたポテンシャルを持った女子たちが配置されるというように、明里という人格に、様々な女子の姿を投影できてしまうことに気づく。このように『秒速…』は、男子による女子の投影を描くという物語上の意味作用だけでなく、リアルな存在にまでそれを引き延ばすという反作用までを含んだある種の“神話”のように働くことがわかる。


むろん、神話だからといって『秒速…』が何も特別な物語だというのではなくて、結局のところ実ははるか昔からこうした志向作用ばかりを私たちは繰り返しているのだな、ということなのである。

相対性理論『地獄先生』のPV


冨永昌敬監督が撮っていてビビった。



冨永監督の映画は『パビリオン山椒魚』から商業化し過ぎて以降あんまり観る気がしなくなってしまってけど、できればこういうマイナーフェティッシュのまま行ってほしい。今年は短編と太宰の『パンドラの匣』を映画化してるみたい。


相対性理論は『LOVEずっきゅん』のPVもいい。