スロウライダー『Adam:ski』



スロウライダーの舞台『Adam:ski』は、もう死んでしまってこの世に居ない、“先生”と呼ばれるある不在の人物(=折口信夫がモデルになっている)の書斎跡で派生する関係性のホラーだった。“先生”の死後、弟子であり大学の教え子であった4人の男たちが、書きかけだった先生の自伝の残りを代わりに完成させようとするところからストーリーが展開される。「4人で分担して書くと統一性がとれない」という理由から、そのうちの1人が代表して書き進めることになる。代表の座を得た彼は、民俗学の権威であった“先生”が嘗て授業を行うときそうしていたように、口承と書取によってその自伝の完成を試みることにする。


やがて、彼は、“先生”が嘗て身に付けていた衣装を纏いはじめる。そうして、あたかも“先生”になりきったように 、他の弟子に口述の内容を書き取らせていく。それらの真似事は、はじめのうちは先生になりきって自伝を書こうとするための単なる手段であり冗談だった。しかし、それが段々と笑えない範囲のものになってくる。喋り方も“先生”を真似、さらには弟子達に威圧的な態度をとる素振りまで再現してみせる。次第に、彼は、その場の中で、その関係の中で、真に“先生”として認識され始める。彼らは、自分たちが“先生”と呼んでいるものはいったい何なのかという根本的な問いを含みながら、目の前にいる他人が段々と“先生”本人と化していくこと、そして、記憶の中の“先生”が段々と他者化されていくこと、模倣が真実を帯び、主と従が逆転し、虚が実に実が虚に転換されるプロセスそのものに、彼らは(そして観客も)恐怖していく。


言うまでもなく、これは、自伝を代表して書いたその弟子が、ものすごく“先生”の真似がうまかった、という話ではない。“先生”は、その場に居た誰もが真似し得たし、乗り移り得た。もっと言えば、誰もが“先生”という存在そのものを代替出来た。いや、誰もが“先生”になりうる、というよりも寧ろ、「その人間」というのは実は結局のところ「他の人間」によって再現されうる程度の部分の重なりでしか存在し得ない、ということなのかもしれない。この作品は、「模倣」「伝承」「憑依」「類似」「シミュラークル」といった主題を軸にして、人間の、対象への認知の同一性と脆弱性をえぐり出すような、非常にスリリングな内容である。


さらに、この物語は、舞台の中では、「その弟子のうちの一人から聞いた話を、さらにまた別の人物に語り聞かせている話」として描かれている。しかも、「どこまでが真実なのか不明」という留保つきで。ここで多くの観客が気づく。つまり、そもそもこの話そのものが(“先生”の実態が曖昧であるのと同じような構造で)真実不在であるということになる。ここでもまた、シミュラークルや主従の逆転といった事象が浮き彫りになってくる。人にとっての真実とは他ならぬ「信じ」の問題であって、それは、その話が嘘とか本当とかとはもはや別の次元にある。先生と弟子、本物と物真似とが交換可能なものとして感じられてしまうように、現実の出来事とその伝承、オリジナルとそのコピーとのあいだには、いかなる優劣もない上に、ときにどちらもが平等に「真実」になりうるということを示唆的にしめしてもいる。


こうした、虚実の垂直的な構造の脱臼みたいなものが、様々な形式、様々な内容でこの舞台作品には織り込まれていて、しかもそれがそこで生じる出来事とわかちがたく密接に結びついている点が、この作品をとても強度の高いものにしている。ある側面においては、作品はこのように直感的に面白いと同時に巧みに批評的であるということを常に望まれている。




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