ノスタルジーについて


こないだ、稲垣足穂の『一千一秒物語*1って本を読んでてこいつは奇妙だということがあって。なんというか、こういった硬質で且つ浮遊感があるというような感じの幻想的な心象風景にはこれまで出会したことがなかった筈なのに、その風景がどことなくなぜか懐かしいものとも思える、という感じがした。何か確定的な、ある事実が私の過去の経験のうちにあって、それが再沸してくるとか、そこへ引き戻されるとかいったことで感覚する追懐の感情ではなくて、明瞭な時空間的原点を持たないと言うか、それが極めて曖昧であるようなものに対して(こそ)抱かせられる感懐の感情でそれはある。だから、そのある種の懐かしさというのは、むしろ実体験というよりは、漫画とか、アニメとか、詩や寓話といったものの方に属するんじゃないかと思える。そこには、「追憶の彼方へ」というのではなくて、「懐(ふところ)やポケットの中にある」かのごとき懐かしみがある。だがそれは、同書に収められている『美のはかなさ』というエッセイの中で、「宇宙的郷愁」というような言葉で既に説明されてもいる。その「宇宙」は、星を拾って走って逃げたあの少年のズボンの「ポケット」とどこかでつながっている。


そんなことを考えていると、次に読み出した『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』*2という本で森山大道が、幼時からの無数の記憶の断片をつなぎあわせてふくらませた、仮構の場所としての「ふるさと=原景」というようなことをタイムリーに言い出す。この場合、ふるさとを想う心というのは、「故郷=出生地」を振り返ることでの物悲しさ、ホームシックなどとは関係を持たない様な、何かしら想念の中の、つぎはぎの情景に対する、ある種のよろこびの感情、愛着だったり、憧憬だったりといったものである。同窓へではなく異境へのノスタルジー。でもそれは理想郷みたいなものとも違って、ユートピア思想とか隠遁思想、つまり、現実世界があって、それをある意味で批判するような、非俗的であるとか非人間的であるといった桃源郷にこの「ふるさと=異景」を結び付けようとする思想とはまったく別のものである気がする。ここで言う異境とは、累積や延長ではあったとしても、代替ではない。しかも壮大な完成図ではなくてもっと矮小で、もっと断片的で、脆弱なもの。中原中也の、月夜の晩に偶然海辺で拾った、結局ポイと捨てられずにふところにしまって帰ったボタンに抱くような懐かしさである。


この懐かしさは、まず個人の思念レベルのものでありうる。たとえば、私にとっては、(行った事もないくせに)西ロシアや東欧のうらびれた廃屋の続く街の風景や、多摩ニュータウンや、山本直樹の描く「田舎」にものすごく原景を感じる。それと同時に、これはある文化圏において、またあるパラダイム下にある者のあいあで共有されるものでもありうる。たとえば、(個人差は承知の上で)宮崎駿の描く風景や、タルコフスキーの映画や、ムーミン谷や、ぽたぽた焼きは、なぜか多くの人にとっての原景であり、ノスタルジックである。どこまでが個人的/公共的かを切り分けるのは難しいが、いずれにしてもなにかしら「ノスタルジーのコード」のようなものがわれわれの認識には横たわっていて、上記の作品や風景はこれがうまいぐあいに編み込まれているのだと思う。未知なのに既知でもあるような、遠いのに近いような、この距離の感覚というのは非常に不思議なものがある。


ただ、「ノスタルジーのコード」といっても、それが単にモチーフに還元されるとは思えない。例えば、「四畳半」「線香花火」「オカリナ」とかいったものは確かにノスタルジックな要因を持っているかもしれないが、問題はモチーフの配置の仕方であり、重要なのはもっと総体的な事象としてのノスタルジーだ。逆に言えば、そういったものの「編み込まれ方」については、注意深く吟味する必要がもう少しある気がする。