ガス・ヴァン・サント『パラノイドパーク』



6年くらいに前に読んだ『STUDIO VOICE』が映画特集をやっていて、(映画を)「監督で観る」「音楽で観る」などと並んで「撮影監督で観る」というページがあったのには当時(17歳)はたいそう驚いた。それは、作品の形式や内容、或いはその善し悪しは、監督の意図や思想の単なる表出だけではなく、それに関わる主要なスタッフの手の編集によって大きく左右されうるということを意味していて、そればかりではなく、当然シネフィルはそういった配慮をもって映画を観ている/観る映画を決めている、ということの証言そのものでもあったように思う。それ以来、何かしらの作品や表現(本でもイベントでもウェブサイトでも)を選択・検索するときの方式が確実に変わってきてて、たとえば、ある作家の展示が面白かったらそのキュレーターがやっている他の展示を探してみる、といったように、表現物を構成する変数が多数化して、その変数から別の表現物のアーカイブを探索していくような姿勢へと、志向性の広がりが生まれてきた。勿論、こういった姿勢そのものを駆動していた背後には、情報のデータベース化、単純に言えばInternetという装置/環境の存在が不可欠だったというのは間違いない。


ところで、『パラノイドパーク』を観てまず明確に思ったのは、同監督の『ジェリー』『エレファント』『ラストデイズ』等と比較して、撮影の手法が圧倒的に違う、ということだった。見終わったあと、それこそInternetで早速調べてみると、これまでずっと撮影監督を勤めていたハリス・サヴィデス氏に代わって、本作では、クリストファー・ドイル氏が担当しているということがわかった。前述の3作では、一定の距離を置いた位置からの、ズームを使用しない撮影方法が、対象との間隔や写真的な佇まいをとても効果的に生み出していたように感じたが、本作では、手持ちやズームやカメラの物理的な近接を多用しており、それが物語上の1人称性や切迫感と切り離しがたく一体化しているという印象があった。クリストファー・ドイル氏というと、これまた調べてみると、ウォン・カーウァイ映画のほとんどの作品の撮影監督を勤めている方である。確かにピンとこなくもない。『パラノイドパーク』における、接近した、動的で、ドライでなく、媒質性に富んだフィルムは、比較的ウォン・カーウァイ映画にも共通する部分があるし、本作ではそういった側面が彼の撮影の技法を通して実を結んだとも言える。


少年と事件との関係、という切り口で言えば、本作は『エレファント』と共通する部分がある。けれどもそこから見えてくる「出来事」の様相は、2つの作品間でちょっと又裂きになっていて、『エレファント』では、あるシーン、ある場が、そこに居合わせた人間(の体験)の数によって実は常に幾通りでも違った風に捉えうるのだ、ということ、つまり、「主観の足し算の上(或いはそのあいだ)に立ち上がる出来事の多面さ」みたいなものが、1つのシーンを登場人物毎の時間軸と視点に沿って何回もループさせる、という編集方法によって表現されているようなところがある。一方で本作では、前述したように、基本的に物語が与える視点は1つであり、1人称的である。カメラは映画を通してほとんどのあいだ1人の少年をクローズアップしている。その代わり、事件=出来事が輪郭を帯びていくまでに、シーンの時系列が、事件前、事件後、或いはそれがいつか特定できないような時間、そしてまた事件前、といった具合に分断され、混交される。これは『エレファント』にはない手法である。『エレファント』では、「同時並列的に存在しうる複数の時系」を扱ってはいたが、それぞれの時系列及びその総体としては(早回し、巻戻し等を含めても)基本的にリニア(直線的)なものだったように思う。本作では、寧ろ、「時制のねじまげによる出来事の複雑化」の側にフォーカスがあたっている。


こうした時系列の組み替えによって、ある種の伏線効果が多用されていたのは本作の大きな特徴的のひとつだった。たとえば、昼間の学校でのショットの直後に、薄暗い部屋で息荒くうずくまっている少年の姿が映し出されるシーンが突如挟み込まれる。そのときは、その映像がいつどこの何の描写なのかまったく理解できずに不意打ちをくらってしまうのだけれども、映画の後半、既にその事件のいきさつがわかったあと、もう一度同じシーンが映し出されたときは、(同じ映像なのにも関わらず)その映像から伝達される情報の多さに思わずはっとする、といったトリガーが、映画の中でうまく機能していることがわかる。これによって、事件への直面によって関係づけられる少年の動揺や緊迫感が、おぼろげながらもじわじわと増幅されるスリリングさみたいなものがあって、観ているあいだ頭の中が前のめりになる感じだった。これも、『エレファント』が、事件「に至るまで」を映した映画だったのに対して、本作が、事件「前後の往来」を映した映画だったことが深く関係している。


ただ実は、時系列の組み替えがもたらす効果として、伏線よりももっと面白いものがあった。普通、「これは時系列が組み替えられている映画だな」と判明した瞬間、観る者がまず間違いなくとる思考の経路というのは、「いま映っている映像は、物語の(本来的な)時系列上のいったいどの時点なのか」ということをいちはやく察知しようということ、つまり、シーンと時制の関係を探ろうとする作業である。が、本作の中には、そうした能動性をかいくぐるようなシーン、つまり、“匿名的な時系”ぐらいにしか呼べないような、分類しがたいシーンというものが結構ある(これは映像メディアにとって、実際のところ非常に興味深い問題なんじゃないかと思う)。それがどの時点で起こっていることなのか、上映中もわからないし、結局見終わったあともわからない。ずっと前だったかもしれないし、或いはずっと後かもしれない。要するに物語の本筋から切り離されたシーンが散在していて、それは、同級生の女子と他愛ない会話を交わすシーンだったり、別居中の父親と久しぶりに再会して両親の離婚を告げられるシーンだったりするのだけれど、そうしたシーンが映し出される度に、不思議な解放感や浮遊感に捕われる感じがする。シーンと時制の関係性を追おうとする中で、急にそれと関係づけられない匿名的なシーンが浮上することで、緩んだ緊張がそのシーンを剥き出しなものにするという現象も、ある意味では非常にスリリングなのかもしれないなというふうに思う。


とはいえ、それらの中には、おそらく見返す度に「ここはそういうシーンだったのか」と、新たに時系列のパズルにはまってくような快感もあって、それもきっとひとつの醍醐味になる筈である。