本谷有希子と梅佳代のラジオトーク


文化系トークラジオ『Life』は、2回目くらいから「佐々木敦のネチネチした喋りがキモくて逆にそそる」という症候群に陥り、病み付きになります。毎週分Podcstで聴いています。


その『Life』のスピンオフ企画で、本谷有希子がパーソナリティをつとめる回があるのですが、昨日は電車の中でそれを聴いていました。しばらくしてゲストに梅佳代が登場、例によって“女子”トークがスパーク。“女子”。とにかく彼女達はそう自称したいらしいのです。毎度「そういうひと」を目の当たりにして思うのは、彼女達は単にしきりに「あたしは“女子”である」と公言したいというよりは、「あたしは“女子”である」という公言によって得られる他者からの「なんかよくわからないけどすんなり受け入れられない、が、やたら目につく」というある種の疎ましさのリアクションこそを期待してるんじゃないか、ということです。


普通に考えると、“女子”は、時系列的に“女の子”と“女性”のあいだにあって、なんとなく「ティーン=10代」な感じです。しかし、“女子”的要素を外に向けてパフォーマンスする人は決まって20代です。当たり前ですが女子中高生は自分たちの“女子”性をことさらアピールしたりしません。自分でそう言わなくても、世間的にそういうことになっているから必要ないのです。世間が公言してくれない20代は、自分で“女子”とラベリングしなくてはいけません。ところがもちろん、いつまでも女子的な部分を保持したがる態度は、既にそうではない“女性”、なかでもまだ微妙に“女子”を喪失したばかりの同年代+ちょっと上くらいの世代の“女性”に対しては、どうも目の上のたんこぶ的な存在になるようです。本谷有希子は「私は女子なんで」とか「誰も(女子と)言ってくれないから自分で言う」というようなことを言いますが、その発言の背景には、そのように発言することで常に「何ダソレ」と思う同性の嫌悪と憧憬の両方を買おうとしている姿というのが伺えます。その点で、彼女は非常に上手に賢いドキュンであり、反面そうした「世間的な言説の構造」に進んで着火できる希有な人だとも言えます。褒めととるか貶しととるかは別として、2つは表裏一体です。


2人のトークは終始、この女子的たろうとする自意識について、方や本谷のハッキリ、方や梅のムッツリ、という感じで進んでいました。女子や非モテを多少自虐的な合い言葉として使っているあたりは、一部のオタクやニコ動をうpしている人たちの精神性と似たものを感じました。


まあ正直言って、その手の自意識はあんまりどーでもいいとしか言えないのですが、私としては、彼女をはじめとする、同性に微妙に好かれそうにない女性がごくごく稀に併せ持つ、非常にアクロバティックな言葉の体系というのに興味があって、それはたとえば本谷有希子の他に、椎名林檎川上未映子に見られる類いのもので、彼女達の好かれなさと言葉のセンスは何か同じ資質を要因にしているのではないかと思っています。


本谷有希子梅佳代の会話の中で特に面白かったのは、「表現とかやってると男にモテない」という話(私の所感だと、“女子”と口にすることとその人が非モテであるということはかなり密接に関係をもっている筈です)。2人は「男子はビジネスにしろアートにしろ仕事ができる方がモテるのに女は違うのはなぜ問題」について熱心に語っていました。正確に言うと熱心にはなっていましたが何も語ってはいませんでしたw。まあ特に最近は一概にそうとも言えないと思いますが、にしてもまだまだ根強い問題だなと思います。こないだも一緒に飲みに行った女子?女性?2人ともそういった話題になり、「ある一定の歳までは、男女に関わらず勉強できた方がえらい、と世間から思われるのに(エリート志向)、いつの時点からか女性だけ、あの子は結婚もしないで(まだ)働いている、と世間が冷ややかな視線を浴びるようになる」ということについてハッとしました。


確かに特に田舎では、「どこどこのなにちゃんは子供も生んで立派な母親になっとる」というような発言を耳にします。そいつが中学生のときどんだけヤンキー度高くてヤニ吸っててバイク乗り回して生でハメて中絶して中卒でほとんどニート同然の暮らしの後たまたま夜遊びで知り合った男とできちゃった結婚とかしてたとし!て!も!、子供を生んでママをやってるというだけで、大卒独身公務員女性より断然人生ランクが上、という定説が成立している地域というのが存在するのです。これが田舎クオリティ。恐ろしいですが、本人的にどうであれそういう優劣の逆転がそのソサエティの内部で起きているというのは事実です。


もっと難しいのは、そうした古典的な「家社会」や「ジェンダー問題」へのカウンターとして機能すると思われていた「自己実現系」、つまり、「結婚や出産しなくてもやりたいことやれてるのが人生の充実ってことでしょ系」も、うすうす減退してきて、何が勝ち組で何がモテで何が搾取からの脱却なんだっけ?というところがとても不透明になってきているということです。個人的には、今後もある程度そういった価値観は相対化されるべきだと思いますが、今後の展開も予想しつつ掘り下げて行くのはなかなか面白いかもしれません。