遅延するメディア



最近、写真の整理をしています。一年前からこっちに撮った写真の中で、現像だけしてプリントしていないものを、フォトスキャナでPCに取り込んでいます。尾瀬、大島、波崎など旅行先で撮影したものも少なくありません。撮影してからかなり時間が経っているものばかりなので、単なる懐かしさの他に、何枚もの写真によって記憶が修正・合成されていったり、一枚の写真からどんどんと潜在していた記憶が広がっていったり、そういう情景・時間・記憶のうねりのようなものの直中に漂っている気分がずっとしています。


随分前に読んだので、名前を忘れてしまいましたが、何かの写真論の中でその著者が、「写真は遅いメディアだ」という位置づけを行っていました。それは要約すると、映像や音声の同時性(テレビやラジオなど)に比べて、写真は、現像→プリントというプロセスを踏まなければならない分、発信者から受信者に届くまでの時間が明らかに他の多くのメディアよりも「遅い」のだ、ということでした。勿論、どの媒体から一番先にその情報に触れるか、というのは個人差がありますが、とはいえこれはなかなか面白い指摘です。


この写真の「遅さ」は、録られたものを再生することの困難さに起因しています。映像や音声には、録ったそばから再生できる、つまり、録ることと再生することが一体になったデバイスが、豊富に揃っています。そういう意味では写真の中でもデジタルカメラはこちら側の部類に入ります。しかし、銀塩写真は、録ることと見ることの間にかなり大きな(絶対的と言ってもいい)断絶があります。


そして、ときに、この断絶が、思わぬかたちで、写真に映っているものとそれを撮った者との出会いのかたちを変えることがあります。普通は、撮った写真はすぐに見たくなるものですが、<録る>から<見る>までの間隔が短ければ短いほど、その行為が単なる「追認」に終わるケースが多いものです。反対に、たとえば半年くらい放置していたフィルムをプリントして見たとき、その時間的距離が一気にばちんと縮まるようなある種の衝撃が生まれます。無意識の側にあるものが、かつ無意識的な方法によって現前してくることへの衝撃、みたいな感じです。そういえば、森山大道は、撮ったフィルムをわざと長い間放置してみたりすることがある、と、これまたどこかで書いていたりしました。


話は変わりますが、私の自宅のフィルムケースには、二本だけどうしても現像できないフィルムが眠っていて、というのも、それは5年くらい前にベトナムに行ったときの写真で、AGFAのフィルムだったのですが、日本に戻ってきてしばらく放置していたら、AGFAが日本から撤退してしまって、日本での現像・プリントができなくなってしまったわけです。まあ、ドイツとかに送れば確かやってくれた筈なのですが、それもまたそれで重い腰があがらず、ずっと放置したままになっています。


もはやどんな写真を撮ったかなんて当然覚えている筈はなく。タイムカプセルを開けるときのような若干のロマンチックさが匂ってきますが、ふたを開けてみればおそらく何の変哲もないものが何の変哲もなく映っていたりするのだと思います。とはいえそれはそれで、というかその方が寧ろ、それが「写真だった」ということの意味は強いのですが。でも冷静に考えるともう現像しても白く飛んじゃってるかもしれないですね。フィルムはナマモノだ、とはよく言ったものですね。いや、でもいずれにしてもいつか現像する日が少し楽しみです。