『パタリロ!』がすごい


こないだ友達と渋谷で会って、なんのとりあわせかわからないけど「マリアの心臓」と「たばこと塩の博物館」に連れて行かれ、最後に『パタリロ!』が面白いから必ず読むように、と捨て台詞のように言われて別れて、ちょっと気になったので読んでみた。


調べて初めて知ったんだけどまだ連載続いてるらしいですね。アニメ(再放送)でちらっと見たことしかなかったけど、1978年の初掲載以来、掲載期間30年以上、既刊81巻で少女漫画の中では『あさりちゃん』を退いて第一位とのこと。Wikipediaやブログレベルでは「耽美」「ストーリー展開がうまい」「笑いも泣きもある」「BL・少年愛」「源氏物語のメタファ」ということみたいだけど、正直ぱっと見たところで衝撃を感じたのはそういうことよりも、むしろ、見た目上あまりにタッチの違いすぎるキャラクターがひとつの漫画の中に共存しているということだった。


主人公パタリロは設定上10歳で、ふにゃっとした面持ちでギャグ漫画に出てきそうな顔。かたやそれ以外の登場人物は基本的に『ベル薔薇』や『おにいさまへ…』みたいな少女漫画のタッチが踏襲されている。この違和感は、もっと強調されてもいい。『ゴルゴ13』に突如として『バカボン』みたいなキャラが何の変哲もなく居る、みたいなことだ。これは驚く。というかこんな違うキャラが居てストーリーが成立していること自体が不思議だ。しかし、読んでみると、破綻することなく、しかも『パタリロ!』のストーリーは、それら二つのタッチが共存していることによって、ギャグ路線にもシリアス路線にも展開できるようになっている。これは見事な手法だった。70〜80年代の少女漫画の中では珍しく、この作者は男性。キャラクターの性格や容姿の巧みな組み合わせではなく、キャラそのものの統一性を崩すというあたりが男性ならではの発想という気がする。


実際は、「ひとつのキャラクターの中で」場面によってギャグ顔とシリアス顔を書き分けるという手法を用いる漫画はかなり多い。それは、まじめな顔/おもしろい顔といった「表情」の問題ではなく、単純に、線の数が多い/少ない、トーンがある/ない、顔が細長い/まるい、ちゃんと描いてる/テキトー、といった形式的な問題としてあらわれている。たとえば桜木花道の、試合中の顔と、綾子さんにハリセンくらってるときの顔はそれぐらい違う。一方でそれと同時に、ひとつのコマの中では、そこにいる全員がその同じ「形式」に染まる、というのがセオリーだ。ハリセンをくらってる花道の横で綾子さんがすごいリアルなタッチで描かれることはまずないし、逆の場合でもそうだ。



ところが、『パタリロ!』は違った。ギャグ顔と少女漫画顔とが平気でひとつのシーンに同居する。なぜならパタリロはデフォルトでギャグ顔であり、それ以外はデフォルトで少女漫画顔なのだ。むしろシーンによって変わったりもしない。それどころか、バンコランとマライヒがキスする緊張感のあるシーンの直後にパタリロが出てきて思わず笑ってしまう、みたいなことが間々ある。普通のことしゃべってるだけなのに。つまり、パタリロ自身が、そういった少女漫画の「形式」を脱臼させる装置として機能している、と言ってもいい。『パタリロ!』は少女漫画でありながら、同時にその内側から少女漫画の批評をしているという奇妙な漫画なのである。



全巻買うのはしんどいが、なんだか10巻あたりがいいという話があるようだから、ちょっとそのあたりも読んでみたい。