『あいのり』が終わる日



フジテレビの『あいのり』が、2009年3月をもって放送終了となる。10年にわたって常にどの裏番組よりも高い視聴率を叩き出し、人気を保持し続けてきた背景には、日本のテレビコンテンツ産業きっての巧みな戦略と構成があったと私は思っている。


『あいのり』には、「恋愛観察バラエティ」という冠がついている。しかし内実は、「リアル世界の誰かと誰かの恋模様を単に追跡する」という単純な「ドキュメンタリー番組」ではなかった。参加者は各自キャラ設定され、旅の中での会話・日記・独白など様々なメディアを織り交ぜながら、ハラハラドキドキの多彩な「ストーリー」がパブリッシュされていった。半分野放しにしながら一方で周到にオペレートしていく、そうした、ドキュメンタリー/フィクションの狭間を射抜くような新しい試みだった。それを実現するための、編集作業や演出の苦労は想像を絶する。


『あいのり』の構成がもっとも秀逸だった点は、「付き合ったら終わり」「ふられたら終わり」というルールを設定したことだった。そして、告白して帰国したメンバーの代わりには、すぐに新しいメンバーが補充される。つまり、これによって、視聴者には、ずっと「恋のはじまり」だけが提供される続ける、という他に類を見ない構成が実現された。これはいわゆる「恋愛モノ」のコンテンツにとってほとんど革命的な事態だと言っていい。いまだかつて、小説や漫画も含めて、「恋がはじまる時のあの甘酸っぱい予感に満ちたかけひき」の部分のみを、半永久的に、しかも登場人物が入れ替わりながらずっと楽しめるようなコンテンツがあっただろうか(いやない)。


普通に考えれば、恋愛ストーリーにおいては、「付き合っちゃったら、あとはラブラブでマンネリ化しちゃうのが当然」という前提をいかに乗り越えるかが問題になってくる。その対処法として、たとえば、何かをきっかけにして関係をぎくしゃくさせたり、別れさせたり、他の登場人物とくっつけさせたり、といった方向に関係が展開されることが多い。テレビドラマや少女漫画に見られるそれらの展開は、しかし、いずれにしても、「有限で固定された登場人物の中で繰り広げられるもの」とうい前提条件を土台にしたままである。


『あいのり』は、その根底を覆したという意味で画期的だった。『あいのり』が採用したスキームは、「登場人物を循環可能なものにしてしまうこと」だった。これには登場人物が「一般人であること」が必要で、恋愛物語におけるCGM化のはしりだったように思われる。そしてそれによって、必然的にマンネリ化やドロドロ化は回避され、多彩なストーリーが量産的に排出されうることになる。しかも単純にローテーションさせるだけではなく、「告白」という出来事を最大のイベントとして演出することで、要所要所にカタルシスが起きるように設定されている。


また、量産ということで言えば、『あいのり』は、番組終了までの時点で、放送回数がおよそ440回にのぼる。仮に少女漫画の1話が番組の放送1回分だとして、だいたい5話で単行本1巻だから、『あいのり』は単行本全88巻に匹敵する超ご長寿恋愛ストーリーだということになる。それは、資金やモチベーションの問題ではなく、あきらかに『あいのり』があみだしたと言っていいあの設定、構成、スキームによるものである。


もしも仮に、日本に「テレビコンテンツ論壇」のようなものがあれば、その場所にとって、この『あいのり』終了という出来事はものすごく大きな事件として扱われていたかもしれないが、視聴者層を考えてもこういった方向からこの番組が評価されることはあまりないと思う。とはいえ、今後、特にユーザー参加型のゲームやウェブサービス上において、こうした多様且つ量産的な構造をもった恋愛シミュレーションが展開されていけば面白いと思う。私の思うところ中国や韓国で盛り上がる気がする。