ミヒャエル・ハネケ『ファニーゲーム U.S.A.』

「映さない」映画


映画は何かを「映す」ことによって成立しています。しかし、いくつかの映画には、特定のシーンを、意図的に「映さない」という演出をとっている映画があります。そのことを、黒沢清監督はヒッチコックの『サイコ』などを例にとって大学の講義で教えている、という話が、『BRUTUS』2009年1月号に紹介されていました。「映画のストーリーを叙事的に追って考えれば、そこで確かに起こっていたであろう出来事」に対して、あえて表象を避けること。黒沢監督が語る文脈では、それらの事例は特に殺人などの狂気的な場面について多く取り上げられていました。


この背景にはまず、1930〜60年代のハリウッドで、殺人・犯罪といった違法行為の描写が、意図的というよりはむしろ「ヘイズ・コード」などの倫理的な要請によってスクリーンから排除されていた、という事実があります。これはあくまでも想像ですが、そういった市場の制約から、「映せない」ことがかえって映画の演出の内部に効果的に織り込まれていった可能性があります。やがて映画がグローバル化するにつれて規制は緩和されていくことになりますが、それ以降も、「あえて映さない/あえて描かない」ことが、観客の想像力を喚起するための手法のひとつとして発展していったように思われます。


このような演出の手法は、特に映画に限ったことではありません。ストーリー(叙事的に説明可能なもの)を持つものであれば小説や演劇といった別のメディアでもよいのです。ただ、映画には物理的な「フレーム」があり、その内(映されるもの)と外(映されていないもの)とを描き分けることは、永らく映画特有の手法として確立されてきました。大谷昌之氏は、flowerwild.netのレビューで、ミヒャエル・ハネケ監督『ファニーゲーム U.S.A.』において、登場する家族があらゆるショットにおいてフレームの内側におさめられていることが、一家が映画の中の不条理な世界から脱出不可能であることを意味していると解釈したあとに、続けて以下のように述べています。

ただ一度だけ例外があり、一家がショットの外に、訪問者がショットの内に位置するシーンがある。それは、子供が殺害されるシーンである。子供の死は直接には描かれず、ショット外の音として表現される。つまり、一家はただひとつだけ映画内世界から抜け出す方法を有しており、それは死なのである。

非常に明快な読み取りです。このシーンでは、「子供の死」という出来事が確かに起こったはずですが、それは直接フレームの中に映されません。むしろ、それを意図的に「映さない」ことによって、映画内世界からの唯一の脱出方法としての死、という構造を浮かび上がらせようろする、監督の知的な演出が垣間みられます。


大谷氏のレビューの中ではそこまで言及されていませんでしたが、映画世界の内/外というこの構造を、映画館の内/外という枠組みに置き換えてみると、またひとつ面白いことに気づきます。この映画には、興味深いエピソードがあって、旧作の『ファニーゲーム』がカンヌ国際映画祭で上映された際に、ヴィム・ヴェンダース監督やその他何人かの観客たちが余りの残忍さに耐えかねて途中で席を立ってしまった、という話があります。つまり、この不条理で痛烈な映画そのものから目を背けるには、映画の<外で>殺された子供と同じように、映画が上映されている場所そのものから「脱出」しなければならない、ということなのです。映画館から退出すること、それは映画を観ることの「死」を意味しています。


確かに、見ていて目を覆いたくなるような、胃が痛くなるような、ショッキングな場面の続く映画です。しかし、それと同時に、登場人物が何度か観客に対して話しかけてくるなど、トリッキーな演出によって、「神的な視点さえも、この映画の<内部に>属している」とうったえたりする、アイロニカルな映画でもあります。また、スクリーンに映っているもの、或いは、スクリーンに映っているものを見ること、それこそが「生」であり、スクリーンに映されないもの、スクリーンから目をそらすことは即ち「死」であるという鮮烈なメッセージ。こうした挑発的でアイロニーに富んだ映画を、できれば離脱することなく辛抱強く観ておきたいものです。