新海誠『秒速5センチメートル』


動画メモ


久しぶりに見ようと思ったら(特に高画質版は)ばかすか消されまくっていた。現状で高画質うpされているのを見つけたので、ニコニコのうp主のマイリストをリンク。

http://www.nicovideo.jp/mylist/7983051

人物投影による神話作用/反作用


『秒速…』のアニメは、男子視点から描かれた、男子が女子を「投影する」物語だ。主人公の遠野貴樹は、第1〜3話のいずれにおいても、つねに「ここではないどこか」に居る女子、篠原明里に対して思いを馳せる(ように描かれている)。そして、その存在を、彼は周囲にある様々な事物上に見出すことで、明里の存在を「どこかではなくここ」へと志向可能な状態にまで高めている。たとえば、明里から届いた手紙の中に(中学生時代)、送信先不明の携帯メールの中に(高校生時代)、桜の花びらや豪徳寺の土地性といった環境情報の中に(社会人時代)。そこでは事物は単なる事物以上にある種のメディアで、まるでアニミズムに似た志向作用がそこここに働いていることがわかる。“汎神”ならぬ、“汎昔好きだった女子”として、いろいろな場所、場面で明里の存在が投影される。


また、明里があらゆる場所、場面に投影可能なひとつのシンボル=神的なものとして描かれるという意味作用が生まれる一方で、それによって、視聴者(である男子)が、明里という人格に自分が昔好きだった女子の存在を次々と投影できてしまうという、興味深い反作用が生まれる。小学生のときちょっと文通してた女の子とか、高校のころメル友だった女の子とか、ほとんど忘れかけていたくらいの、それまでは特に人生においてほとんど何の意味も持っていなかった(意味付けされていなかった)人物たちが、あたかも特別な存在として、つまり(遠野貴樹にとっての篠原明里のように)、それぞれ今はどこかで自分のまったく知らない別の人生を送っている女の子たちは、かつてあの場所、あの場面で「別の選択」をしていたら、ひょっとすると今とは別の現実があったんじゃないか、と思ってしまうような特別な人格としてわらわらと立ち上がってくるのだ。まるで、明里という消失点に向かう遠近法の線上に、がーっとそうしたポテンシャルを持った女子たちが配置されるというように、明里という人格に、様々な女子の姿を投影できてしまうことに気づく。このように『秒速…』は、男子による女子の投影を描くという物語上の意味作用だけでなく、リアルな存在にまでそれを引き延ばすという反作用までを含んだある種の“神話”のように働くことがわかる。


むろん、神話だからといって『秒速…』が何も特別な物語だというのではなくて、結局のところ実ははるか昔からこうした志向作用ばかりを私たちは繰り返しているのだな、ということなのである。