Runa Islam『The Restless Subject』@SHUGOARTS


「Rearrangibility」


SHUGOARTSは、清澄庭園の東に位置した旧工場の中にある。更にそのすぐ東には、隅田川と首都高が連立していて、まるで東京の動脈/静脈を目の当たりにするようなダイナミックな景観が続く。ギャラリーのある5階へは、以前は荷積みに使われていたらしい業務用エレベータが用意されていて、ガゴンという鈍く気味の悪い音をたてながら運ばれて行く。こんな場所に、SHUGOARTS小山登美夫ギャラリー、タカイシイギャラリーという都内でも有数の先鋭的なギャラリーが集まっているのだから面白い。


今回開催されていたRuna Islamの展示は、5/10(土)をもって終了される予定だったのが、好評につき1週間延長された。本当ならやむなく見逃していたところを、たまたま知人に期間延長の話を聞き、慌ててかけこんだ。おかげですばらしい展示に出会う事ができた。


薄暗い展示スペースの中に入ると、A3ほどのスケールの薄い膜=スクリーンが、天井から垂れ下がった2本の細い紐によって宙吊りにされていて、その後ろから、黒く存在感のある映写機が、威勢よく音をたてながらスクリーンに向けて映像を投射していた。その映像の内容は、「表と裏にそれぞれ“鳥”と“空の鳥かご”の絵が描かれた板がくるくる回りはじめ、だんだんと“鳥かごの中の鳥”の姿が浮かび上がってくる」という、誰もが一度は目にしたことのあるだろうあのイリュージョンを中心に展開された。


パタパタパタと回る板がもたらす視覚の魔術は、それを投影する映写機それ自体の、フィルムを巻き取るパタタタタタという音と奇妙にシンクロすることで、また別のイリュージョンを提供する。あたかも、その映像自体が音をたて、同時にその音自体が可視化されてくるような不思議な混交である。それは、彼女が最も影響を受けた映画作家の1人として挙げているジャン=リュック・ゴダールの映画にみられるような、ある特殊な体験を思い出させる。


ジャン=リュック・ゴダールの映画に関して、先日吉祥寺バウスシアターで行われた『爆音映画祭2008』の会場にて、佐々木敦氏によるあるレクチャーが行われた。その内容について、nobodyの田中竜輔氏はこう書いている。

ゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』に先立って行われた佐々木敦氏によるレクチャーは、「現象、あるいは運動としてのヌーヴェルヴァーグとは、見ること、聴くことの不可能性をポジティヴに捉え直すためのものであったのではないか」という仮説から始まった。映画音楽と現実音楽の混交とは、見ることと聴くことにおける不可能性の極値であり(つまり現実において「絶対に見えないはずの音」と「絶対に聞こえないはずの映像」が映画においては可能になるという事態)、ヌーヴェルヴァーグ、そしてその中でもゴダールという映画作家が徹底するのはこの「不可能性」によって初めて可能になるものとしての映画の姿であるのではないか。およそこのような内容がこの日のレクチャーにおける主題であったように思う。

やや形而上学的に聴こえるこの文脈も、Runa Islamのインスタレーションを観た後では、ストレスなく頭に焼き付いてくる。ゆっくりと滑らかにパンするカメラ。はっとするほど瑞々しいフレーム。映写機の丸い穴から飛び出た粒子が、スクリーンの表面でひとつの像を結び、そこからまた部屋のここそこに拡散していくその過程が、光と映像の絶えざる連続性を物語っている。


このインスタレーションは、入り口側から見ると、ちょうど、「視聴者>スクリーン>映写機」の順に、それぞれのオブジェクトが配置される、という設計になっている(展示スペースに入った瞬間、スクリーンを挟んで向こう側から映写機の光が眼に飛び込んでくるため、とても眩しい)。また、他方で、展示スペースの奥側に立って見ると、一転、「視聴者>映写機>スクリーン」という配置に変わる。この2つを比較すると、前者は「テレビ=映像」が持つシステムであり、後者は「映画=映像」のシステムに近いものだ、ということがわかる。


言うまでもなく、前者と後者とでは見える映像が逆転するが、実際のところ、この映像(もっと言えばこのインスタレーション)においては、どちらもが表であり、同時に裏にもなりうる。わかりやすい意味の現実の不可逆性に対して、スクリーンと映写機と視聴者の関係、更には映像そのものが持つ可逆性を再検証するようなこうした投影の技法も、この展示のひとつの醍醐味でもあった。


単純な仕掛けの中に、視聴の構造が持つ危うさ/豊かさを見つめ直すためのいくつものトリックがひねりこまれた、とてもスリリングな展示だった。