運命は、文学だ。

最近、いっときに比べてあんまりメディアとかが<運命>というフレーズを多用しなくなった感じがある。メディアというのは特に雑誌とかテレビとか、あと重要なのがJ-POPの歌詞である。<運命>と同様に、占いや血液型診断みたいなものも随分廃った気がしていて、そういったものを介在する欲望装置が、ある一定のクラスターにあんまり影響力を与えなくなっているのかもしれない。ただ、女性誌の中でも一番<運命>とか言いそうな『anan』は、調べてみるとやっぱり割と今でも粘り強く運命や占いを紙面に織り込ませていて、確かに全盛期よりは流行していないにせよ、とはいえ、そういう「自分や他人の力も含むがそれだけではない何か第三の引力」みたいなものって、単純にみんな面白がるというか、畏怖と希求とを同時に掻き立てるような興奮効果があると思う。幽霊に対する関心もそれに近い。


<運命>って聞くと、「偶然か必然か問題」みたいなことを連想するけど、よく考えてみると、用法としてはどちらの場合にも使っている気がする。たとえば、“親に決められた結婚(=必然)”っていうときも運命だし、“10年後にばったり出会う(=偶然)”といったときも運命だ。ただ、この「両方使う」っていうこと自体が割と重要で、要するに偶然か必然かということはいっさい<運命>の定義には関係がない。寧ろもっと大きな要素は、上の2つの事例にもあるような、「悲劇」とか「幸運」といったような、劇的要素・物語的要素の方だ。


「もう会えないと思っていた父と、20年後、運命の再会」とか、「意外にもお見合いで出会った運命の人」みたいなことがあったとする。そういうときは、“20年間”とか“もうほとんど諦めかけてた”みたいバックグラウンドがかなり本人的に「運命キタコレ」と思わせるポイントだったりする。“意外さ”とか“そのあとうまくいくこと”とかも「運命キタコレ」の重要なキーだと思う。だとすると、運命は、確率ではなく解釈の中にこそある。数学ではなく、文学なのである。


ちょっと関係ないけど、パウロ・コエーリョの『アルケミスト』という小説に面白いエピソードがあって、ある老人が主人公の羊飼いの少年に、しきりに「それはよい前兆だ」「運命を実現させるための前兆を見落とすな」みたいなことを言うのです。それから少年は、風の向きや、石の色や、ちょっとしたアイデアや、女の子の言葉や、いろいろなものの中に「運命の前兆」を発見できるようになる。一見無関係なものや出来事のあいだに「解釈」を見出していくという運動そのものが<運命>の生成となっていくのだった、みたいなのがちょっといい話で、それを少し思い出した。


決定論や確率論みたいな、無限の出来事の連鎖や掛け合わせで<運命>を捉える方法もあるが、一方で、手のひらの皺から人生を物語ったり、大小無数の星を結んで星座を発見していくような作業の中に、解釈の方法や記号学としての<運命>みたいなものがある気がする。