自分がいっぱい、他人がいっぱい

久々の休日出勤の途中、高校の同級生から、妊娠したって報告。
昔から自分のビジョンが明快で、技能だけでそれをクリアしていくっていうよりは環境要因や運をうまく味方につけながらあれよあれよと次のステップが開けていくような、ごく稀にそういう人いるよなと思うけど、その人はそういうタイプだった。中学時代に思い描いてた、無邪気だけどそれゆえにフレッシュな人生設計、職業とか結婚のタイミングとかが、ほんと笑ってしまうくらいその通りに実現されて行くような人だった。


とかなんとか思っていたところ、休日のオフィスでテレビをつけると、中学の同級生が「国際千葉駅伝」でトップを走っていた。面影はそのままだけどなんとなく老けた(大人になった)というか顔が長くなってたのに、懐かしさと遠さを感じる。


こないだは母親から電話がかかってきて、これまた小中高の同級生が地元のテレビ局でアナウンサーをやっているのだけれど、彼女が映画『私は貝になりたい』のプロモーションにやってきたSMAPの中居くんを番組に読んでいろいろとインタビューをしていた、と教えられた。彼女は小学校のときからアナウンサーになりたいと豪語していて(ABC『おはよう朝日です』のエレクトーンのお姉さんにもなりたいって言ってた)、当時音楽の時間に五人組でSMAPの『SHAKE』の替え歌を作って振り付けまで自分たちで考えて発表したこともあったなあ、とか考えると、今アナウンサーやってて中居くんと一緒にブラウン管の向こう側に居るんかと思うと随分不思議な気分になる。


特に、夢が叶うのが素晴らしいとか、有名になるのが凄いという話でもなくて。顔も合わせた事のない誰かが「他人」なのは当たり前だけど、同窓生とはいえやっぱり「他人」なんだというごくごく当たり前のことを、そういう話を耳にすると如実に感じる。うちの弟は今年高校受験だったりするんだけど、かつての兄みたいにテストをゲーム感覚で楽しむ感じでは全然ないみたいで、まったく勉強とかしないらしいのだが点数だけは良いというかなり厄介な状況らしいので、どげんかせんといかんぞ、と言ってやった。かといって具体的にどげんすればいいかというのもまた難しい…。学力や部活が強い学校に入った方がいい、という方針を肯定するのも否定するのも違う気がする。「どんな選択をしても、誰しもが結局は自分が置かれた状況に対してそれなりに愛着とか幸せとか感じてるとは思うんだけど、それでもやっぱり色んな意味で能力の高い学校に行っといた方が将来選択肢が多いぞ」ってのを経験則レベルでしか語れない自分。それはある意味で正解だろうけど、それを啓蒙することが果たして成功かと。干渉しすぎるのもダメだし、放任しすぎるのもダメだし、子育てってか人間関係のさじ加減って難しいね。


思えば今年は周りでいろいろあった。
同級生がパパになった。同級生が二度目の勘当を受けた。同級生が航海に出た。同級生の結婚が式の一ヶ月前に破談になった。打ち合わせ先のオフィスで同級生がバイトしてた。同級生が先輩と結婚した。同級生が同じ職場に入って来た。とか、まあ、そりゃみんなもみんなのみんなも、いろいろあるわな。