少女漫画と再帰性

「少女」は再帰しない


矢沢あいの『天使なんかじゃない』(以下『天ない』)は、内容の面白さもさることながら、漫画における「キャラ」の歴史的にみても、少女漫画のフォーマットの中に、なぜか「ヤンキー(極めてライトなヤンキー像だが)」や「ツンデレ(当時はそんな言葉はなかったが)」が登場するという、極めて先駆的な作品である。だが、そこに描かれる登場人物の「少女」像は、旧来の少女漫画の域を出るものではない。いわゆる“少女漫画”にみられる「少女」性とは、思春期の繊細でセンチメンタルな気分を媒介にして露呈したり秘められたりする、女の子特有の自己肯定と自己憐憫の往復運動のようなものだと考えられる。たとえば主人公の翠が、幼なじみのケンに別れを告げるシーン。「あたしはケンの優しさに逃げたんだ」と自己批判するも、最終的には「好きだよ 大好きだよ だけどごめんね 恋人にはなれない」という、しょうがなかったの感全開の自己肯定へと収束してしまう。そしてその後、当のケンとは快調に「前よりいい関係になれた男友達」という位置づけとして接している。自己肯定と自己憐憫は、結局どちらも自己愛に根ざしているがために、他者とのコミュニケーションにおける衝突やすれ違いも、すべて「甘酸っぱい」思い出として肯定的に回収されてしまうのだ。


翠が全く人のことを考えていない非道の人間だというわけではない。おそらく彼女は彼女なりの方法で「他者」を持ちそれについて思考する。しかし、その方法そのものが、常に、思春期ならではの気分や自己愛に浸されている可能性が十分にある。このようなある種の「美化作用」は、他人や世界のでたらめさ、野蛮さ、複雑さ、不条理さをきれいに隠蔽することができる。その「美化作用」こそが、実際にところ、多くの読者を引きつけるものでもあるだろう。ただ、たとえばそれは、読者が「現実の不都合」にうんざりして「虚構の好都合」を志向するという単純な図式ではなく、私の知る限りでは、「美化作用」そのものが現実世界での人間関係にまで及んでしまっているような、少女漫画的リアリティをもろに生きている人間も少なくない。彼女たちが、そしてまた同様に多くの少女漫画の主人公たちが置かれている状況とは——それが良いか悪いかは別問題として——、他者や世界に満ちている野蛮さを真っ向から解釈しようとせず、しかもそんな自分の存在が、さらに野蛮であることをやっぱり真っ向から解釈しようとしない、という、再帰性の二重の欠如という事態である。

「女児」は再帰させられる


一方で、同じ“女の子”を描きながら、女の子の自己肯定や自己憐憫に対して別のアプローチを打ち出している作品が、さくらももこの『ちびまる子ちゃん』である。この作品の主人公まる子は、自己肯定と自己憐憫はなはだしい、(年齢相応の)非常に自己中心的な一面を持つ。だが、少女漫画と決定的に違うのは、それらの自己愛が、「美化」どころか「醜化」に近く、「甘酸っぱい」というよりむしろ「しょっぱい」以外の何物でもないような何かとして——そしてそれゆえに愛おしくもあるものとして——映ってしまうところである。まる子は、どちらかと言えば「少女」ではなく「女児」と形容する方がふさわしいだろう。女児にとって、母親は、父親は、学校は、つまり世界は、自分の意志を阻害する不条理そのものとして立ちはだかっている。それゆえに、まる子は、外部とのコミュニケーションによって起こる様々な問題を、美化することなく真っ向から野蛮だと受け止めることが可能になる。そしてわーわーと泣き、不平を言い、だだもこねるのだ。


それと同時に、そうした女児の存在を、大人の側もまた同じように素朴に野蛮だと捉えざるをえない。『ちびまる子ちゃん』の中では、このように「相手を野蛮だと認知している者同士」の対決がしばしば描かれる(特にまる子とお母さんのあいだで起き、お母さんの「いいかげんにしなさい」で幕を閉じる)。そして、実際そうした闘争の中でこそ、女児は自分や他者の存在に疑問を持ち、再帰性を得ることができる。だだをこねないからといって、少女が非野蛮なのではなくて、寧ろ、自分や世界の野蛮と正面から出会うこと無く思春期を迎えた結果、美化作用へ昇華しないことには自分と他者との関係に折り合いをつけることが出来なくなってしまった女の子こそが、少女漫画における「少女」だと言えるかもしれない。これは、『ちびまる子ちゃん』が比較的三人称の視点から描かれ、他方で『天ない』を含む少女漫画に一人称の語りが多く用いられること、また、前者の家庭がさほど裕福ではなく且つ姉妹がいるのに対して、後者のそれが比較的裕福で且つ独りっ子であることとも、大きく関係しているように思われる。結局、人は「一人称の保護区」の内部では、再帰性を得ることができないのである。


「女子」は再帰する


再帰性を得た「女児」は、決して「少女」にはなることはなくて、まっとうに「女子」になる。そういう意味で、渡辺ペコの『Roundabout』は、すごくまっとうな「女子」漫画である。天真爛漫だけどたまに真理をつくようなことを言う女子、可愛くてボインなのにシャイで短気な女子、容姿に対するコンプレックスとナルシシズムを行き来する女子、中二病の女子、離婚した父親の腹違いの弟に会いに行ったけど後ろめたくなっちゃった女子、などなど。学校とは、近代教育制度というマクロな不条理と、同じ年代に生まれたというだけで無条件に集められた何百人もの他人たちというミクロな不条理を一挙に体験するような試練の場である。まさに『Roundabout』は、登場人物たちが、学校という場を通して、「教師」や「性」といったマクロな不条理を共通して抱き、またお互いがお互いにとってのミクロな不条理として機能することで、地道に再帰性を身につけて行く過程を明快に描いている。


大人の「女」或いは「女性」への階段を昇降する「女の子」という存在。上記のような分類で言えば(かなり乱暴な分類ではあるが)、80年代の「女児」、90年代の「少女」、00年代の「女子」という変遷を仮定することが可能だろうか。とはいえ、これが漫画史的に、或いは社会学的に何のどういった表現に成りうるかはまだ全く判然としない。しかしかといってまったく何も語れそうにないわけではないので、引き続き何か考えてみると面白いことが浮かぶかもしれない。