JUDY AND MARY『LOVER SOUL』のPV


映像の中で人が横たわるということ


JUDY AND MARYの13枚目のシングル『LOVER SOUL』のプロモーションビデオは、雪原の中に真っ赤なワンピースを着たYUKIが横たわってずっとうたを歌っている、簡単に言えばただそれだけの映像である。降り積もる雪に埋もれている彼女のそばに、青年や、原始人や、シロクマが、訪れては去ってゆく、という、ショートフィルム仕立てになっている。彼らは、それぞれYUKIに何か話しかけたり、ちょっかいを出したりするが、決して彼女の肉体に触れることはない。唯一最初に登場する黄色い帽子の男が、YUKIの頬に右手を添えようとするけれど、かなり微妙ではあるが、ぎりぎりのところで触れないまま立ち上がってしまう。白いシャツの自殺志願者の青年も、こめかみに弾丸を放ったあと、YUKIの体の方向へ倒れ込むが、重なることなく終わってしまう。この映像の中で、YUKIは、外部からの交わりが及ばない、到達不可能な存在であり、そのせいで彼女はある種独特の神聖さを帯びている。


人が横たわる。ただそれだけで何かぞくっとするものがないか。横たわっている人間は、無防備である。エロティックでもある。それは、こちらが思わず近づいてみたり、むらっとしてしまうことを「アフォード」している。だが、しかし、それが映像だったならどうだろう。近づいてみたい、触れてみたい、襲ってみたい、抱きつきたい、という衝動は、とたんに打ち砕かれてしまう。こちらがふっと引き寄せられそうになったときに初めて、われわれは映像の遠さを実感する。映像は、離れた場所にある対象をぐっと近くに見せると同時に、同じ原理で、その対象への到達不可能性をも意味することになる。人が横たわる、その究極の姿は死である。死はいつも到達不可能な地点にある。


横たわると言えば、ダルデンヌ兄弟監督の映画は、よく人が横たわる。『ロゼッタ』でも『ある子供』でも、ベッドの上に、地面に、頻繁に人が横たわるのだ。それが登場人物の稚さ、危うさ、脆さを見事に表象していて、観る者を問答無用にそわそわと落ち着かなくさせる。こちらは「神聖さ」とはまた別の種類のものではあるが、「触れたいけど触れられない、という感じがまた余計に触れたさに拍車をかける」という部分はすごく似ている気がする。絵画でも、横たわった女性の姿が描かれるケースがよくある。関係ないけど、ストツーのサガットのステージに出てくる仏像もそういえば横たわっている(ワット・ヤイチャイモンコン的な)。仏像でもあれはあんまり神聖な感じしないけど。


『LOVER SOUL』。その中でYUKIはこう歌っている。

 今 あなたの体に溶けて ひとつに重なろう

それは、叶うことのない、他者という到達不可能なものへの夢である。




藤田嗣治『夢』